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おがっちの「島根歴史学講座!みたいな!」2月8日

2013.02.11 Monday

投稿者:おがっち

おがっちの「島根歴史学講座!みたいな!」
このコーナーは、みんなで島根の歴史や文化を勉強していこう!というもの。

出演は、「リメンバーしまね」スタッフ やまきょんさん。

【奈良時代について】

・隠岐国の木簡
平城京は、710年に今の奈良県につくられた都。
これまでの発掘調査で、たくさんの木簡が、出土していて、その中に、隠岐国と書いた木簡がたくさんある。
これは、当時、隠岐から都へ運ばれた貢ぎ物の荷札。
木簡には、隠伎国海部郡佐伎郷云々の地名のあとに、「調 海藻六斤」、「調 烏賊 六斤」、「調 短鮑 六斤」と書いてある。

調というのは、税のこと。
税の種類として「租庸調」があった。粗が稲のことで、調が地方の特産物など、庸は労働とか布でおさめていた。
この木簡に書いてあるのは、隠岐国のどこそこの調として、め→わかめ、イカや干しあわびなどが六斤、という意味。(六斤は、およそ3.5キロ〜4キロのこと)
当時、基本的に隠岐の人々が自分たちで奈良の都まで運んでいった。隠岐から奈良までおよそ35日くらい。
隠岐の海産物は、当時の天皇をはじめとする朝廷の人々の食卓を豊かなものにし、大人気のブランド食材だった。
一方で、隠岐の古墳などからは、地方の古墳からはなかなか出土しないような都の土器や銅でできたお椀などが見つかっており、当時の隠岐が朝廷といかに密接な関係があったかが分かる。

・国分寺と国分尼寺
741年に聖武天皇が、仏教によって国家安泰を祈ろうと、国ごとに国分寺と国分尼寺を建てさせたが、県内でも、石見国、出雲国、隠岐国にそれぞれ、国分寺と国分尼寺が建てられていた。

石見国分寺は、浜田市の今の国分町に、国分尼寺もその近くにあったと考えられているが、建物配置などくわしいことは分からない。
出雲国分寺は、松江市の竹矢町にあった。こちらは、金堂や塔の跡がみつかっており、その全容がほぼ明かになっていて、国分尼寺はその500mくらい東の方にあったそう。
隠岐国分寺は、平成23年の発掘調査で、現在の国分寺と同じ場所から古代の建物跡が見つかっていて、国分尼寺はその南東500mのところにあったそう。

国庁というのは、国の役所のことで、国庁などの役所があったエリアを国府という。
奈良時代には、都から国司と呼ばれる役人が派遣されて、国を治めていた。
国司は、現在の知事のようなもので、行政官としてだけでなく、警察や裁判の一部も担っていた。任期は、4年から6年くらいだった。

出雲国庁は、松江の茶臼山の麓の意宇平野にあった。国引き神話で、やつかみずおみづぬのみことが「おう」といわれたあの「意宇」。
しかし、石見国府、隠岐国府は、どこにあったかよくわかっていない。おそらく、石見国府は浜田の上府か下府のあたりではないかと言われている。
隠岐国府の方は、隠岐の島町の下西か、八尾平野にあったのではないかと推定されているが、確かなことはわからない。

八雲立つ風土記の丘周辺では、古墳や出雲国府跡、古代寺院跡など主な史跡が公園として整備され見学しやすくなっている。

・今日の一曲
白築純「百年先の今日の日に・・・」

魂を揺さぶる炎の舞 「石見神楽」松江公演が、島根県民会館中ホールで、2月16日(土)昼の部、夜の部の2回公演あります。迫力の神楽をご覧ください。

次回は、2月22日の放送です。

http://fm-sanin.co.jp/retoro/index.php?e=731
おがっちの島根歴史学講座!みたいな! 11:24 AM comments (x) trackback (x)

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